オレ流。


by Mazzan_tini

カテゴリ:書評( 11 )

 98年第119回直木賞受賞作。
 直木賞というと読みやすい大衆的な小説が獲るイメージが強いが、こういう純文学的な小説が獲ることは珍しい。まあヤクザ、美女と娯楽的な要素は揃っていて、内容的には十分娯楽小説なのだけれど、文体は好き嫌いが分かれそうで、万人向けの直木賞に選ばれたのは選考委員の英断と言ってよいかもしれない。
 こういう普段とは毛色の違った作品が賞を獲ったということは、それだけこの小説の出来が他を圧倒していたということだろうか。いや実際、中身は相当に面白い。山本なんたらとかいう下手糞とは筆力が圧倒的に異なっている。匂い。車谷長吉の文章には匂いがある。男の匂い。女の匂い。汗の匂い。街の匂い。時代の匂い。そういうものが単語から行間からふつふつと沸き上がってくる。
 ああ、本物の作家だなぁと、読んでいて嬉しくなり、ページを繰る手が期待に満ちる。こういう感覚はちょっとばかりご無沙汰だったかもしれない。筋がどうこうではなく、一文一文が生きている。躍動している。小説というのは、こうでなくてはならぬ。
 また関西弁が小説的世界にマッチしていて実に良い。こういうギラついた情念を描き出すのに、方言というものは実に効果的な働きをする。これが共通語では味気ない。映画や小説で西日本の味わいある方言に触れる度、私は羨望と小さな嫉妬を感じてしまう。
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by Mazzan_tini | 2005-09-18 02:49 | 書評
 00年下半期の直木賞受賞作。
 ええまあ山本文緒なんて私が進んで読む筈もなくて、これまで食指を動かすことすらなかったのだが、さる友人(ここでは某K氏ということにしておこうか)から「たまたま読み終わったから」ということで頂いた品である。そうでもなければ読むことはなかっただろう。もっともK氏にしてみたところで、何の気もなく、たまたま最近に出た小説を、通勤列車の暇潰しにでも読んでいただけのことと推察する。それは本当に「たまたま」で、おそらく私にこの本を薦めたわけではないのだろう。
 でまあ、結論から言えば私には合いませんね、これは。短編集ともなれば大方一本や二本はそれなりに読める小説もあるものだが、律儀にこれまた列車の中でちろちろと読み尽くした結果、ものの見事に全てが駄目だった。合わない。絶望的に合わない。
 というかね、言ってしまおうか。この作家は下手なんだろうね、きっと。文章に匂いがない。ただ書き連ねているだけで、文章から情景が少しも匂い立ってこないのだ。最初の四編を読んだときは、女性視点という小説ゆえに私がリアリティを感じられないだけだと思っていたが、男性一人称の形式をとった最後の一編『あいあるあした』で判ってしまった。居酒屋を舞台に小説を書いて、酒の匂いも肴の匂いも全く読者に感じさせないってのは珍しい。赤提灯を描くなら描くで、そこに漂う香りを文章に沁み込ませるのが小説家というものではないんですかね。
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by Mazzan_tini | 2005-09-17 02:27 | 書評
 ギャンブル小説シリーズ最後を飾るのはこの作品。
 青森という土地は、過去に二人の天才文人を世に送り出している。一人は太宰治、もう一人が寺山修司である。二人に共通しているのが、ともに卓越した言葉の使い手でありながらそれを巧みに娯楽へと転換させた点だろう。芸術性と娯楽性を両方備えた文章は誰にでも書けるものではない。稀有な才能と言ってよいだろう。
 寺山は、『馬敗れて草原あり』で提示した「馬券を買うということは、すなわち己を買うという行為である」とのテーゼを、本書においてよりこなれたものにして発表している。そうだよなぁ、馬券とは哲学だよなぁと真に思う。人気馬を買う者、穴馬を買う者。血統で買う者、馬体で買う者、調教で買う者。逃げ馬が好きな者、追い込みが好きな者。芦毛が好きな者、牝馬を好きな者。単勝ばかり買う者、3連単ばかり買う者。
 それら全ての競馬に関る要素をバランスよく織り込んで、冷徹に馬券を買える者など一握りしか存在しない。大方は何らかの要素を切り捨て、何らかの要素にシフトすることになる。そのシフトこそが、彼や彼女にとっての馬券哲学なのだろう。
 小説を私小説のように書くスタイルも太宰と似ている。「私」とともに酒場に集まる競馬ファンの哀しくも熱い心情を、ハイセイコーが走った70年代という時代風景を匂い立たせて秀逸に描く。流行りの歌謡曲の歌詞が挿し入れられているのも、純然たる芸術志向の作家にはなかなか出来ない手法かもしれない。
 賭博とは、勝った負けたの結果だけでは味わえないカタルシスを多分に含んでいる。ひとつひとつの勝負に至るプロセス、そこにそれぞれの哲学が込められている。そしてその哲学の先には、必ず勝敗という結果が待っている。賭博、とりわけ競馬のそうした側面に、寺山が人生の縮図を感じたとしても決して不思議なことではないだろう。
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by Mazzan_tini | 2005-08-15 18:55 | 書評
 ひさしぶりにギャンブル小説第三弾。
 果たして賭博と女は両立するのかというのは賭博師にとっては永遠のテーマだが、私はどうなんだろうとふと思う。
 一応いまのところはなんとか両立しているようにも思えるが、それは女がまだ若いせいだろう。彼女がもう少し年を重ねて家庭を持つことを志向するようになれば、我々の関係はたちどころに破綻を迎えるはずだ。おそらく彼女は、彼女と、産まれてくるかもしれない子供のために、安定した生活を望むようになるだろう。
 そもそも、賭博と堅気の仕事というものは両立しうるのだろうか。もちろん、二つを並行して行なうことは可能だ。しかし、仕事で得た報酬を一瞬のうちに失うようであればそれは両立とは到底言えず、また、負けても痛くも痒くもない少額を賭けるとすれば、それはもはや賭博とは言えないのではないだろうか。
 私にとって競馬は、幸いなことにまだ賭博の範疇には入っていない。が、競馬というものに収入の何某かを期待している現状は、馬券が次第に賭博に染まっていきそうな危険な兆候を示している。私の生活の中心は競馬であり、それに添うか添わぬかで仕事を選んでいる今の宙ぶらりんの状態は、既に賭博の世界に足を一歩踏み入れかけているということなのかもしれない。
 賭博師たちが皆、一つの勝負に己の人生を賭け、大きな成功を掴むか、あるいは破滅していくような人生に憧れているかというと決してそんなことはないだろう。むしろ彼らの大半は、金などというものは生きていく上で必要な何某かの額さえあればよいと思っており、妻と子を持ち、慎ましくも幸福な人生を送りたいと切に願っているはずだ。しかし、賭博に魅了されてしまった者が、賭博の存在しない生活を送ることはほぼ不可能に近く、仮にそれを為しえたとして、その人生にある種の「空しさ」がつきまとうことは避けられない。そう、賭博のない人生において味わえる幸福など、所詮は「慰め」にしか過ぎないのだから。
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by Mazzan_tini | 2005-08-13 03:33 | 書評
 賭博小説シリーズ第二弾はこれ。
 「牌九」というギャンブルの世界王者となった経験もある著者が、オーストラリアのカシノを舞台に大賭博を張る。美貌の女ディーラーとの勝負などコテコテで笑ってしまう部分もあるが、著者のギャンブルに対する薀蓄はさすが世界チャンプの言葉だけあって説得力がある。もっとも、著者の専門外である競馬に対しての考察だけはいただけないが。
 著者自身、オーストラリアのカシノを根城とする「常打ち賭人」。
 森巣の賭博に対するスタイルは至って明瞭で、通常はごくごく少額の、「見」同然の小博打を楽しみながら、いざ機をみれば一気に大勝負に出て畳み掛ける、いわばギャンブルのセオリーを実践しているに過ぎない。それでも、その「機」を見出す洞察力と、「機」を見出したときに実際に動ける豪胆さを兼ね備えている人間は意外に少なく、そのふたつをともに所持する者だけがいわゆる「勝ち組」となれるのだ。
 私は臆病だ、小物だと謙遜しているふりをしながら、実は周りの賭人たちを見下しているいやらしさ、傲慢さも、実際に「勝ち組」なのだから頷かざるをえず、知った風な口を叩いている若造ギャンブラー達の言とは違って何故か不快感を抱かない。文章も同じような言い回しの繰り返しで決して巧い部類ではないのだが、読ませるツボを押さえているあたり、そこは文章もプロ。森巣の文章は廃刊となってしまった「書斎の競馬」でも目にしたことがあったが、それもなかなか面白い物だったと記憶している。
 なんにせよ、この「牌九」と呼ばれる我々日本人には馴染みが薄い賭博を描いた小説というだけでも一読の価値はある。そして、この小説を読んで心が熱くなった者は洩れなく、既に賭博の世界の住人たる資格があるというものだ。
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by Mazzan_tini | 2005-03-17 22:51 | 書評
 約半年ぶりの書評更新。
 このページの読者層から考えてギャンブル好きが多いと思われるので、リスタート記念企画として、ギャンブル小説特集を組んでみようと思う。

 第一弾となるのは、麻雀小説の金字塔『麻雀放浪記』。私も実は映画でしか観たことがなかったが、この度読んでみてその余りの面白さに熱中してしまった。
 戦後間もない混乱期という舞台設定が独特の世界観を醸し出しており、ドサ健をはじめとする濃厚で魅力的なキャラクター造形とよくマッチしている。そしてこの圧倒的な世界観でラストまで読者を引きずりこんでしまうのだ。
 正直に言って、物語の要であるはずの麻雀の場面は単にイカサマの応酬であり、駆け引きが格別に秀逸であるのでもない。ただ、やはり麻雀漫画の白眉である『哭きの竜』同様に、実際のところ麻雀そのものの持つゲーム性というのは、実はそれほど重要ではないのかもしれない。そちらを楽しみたい人は、小説や漫画に頼らずに素直に卓を囲めばよいだけのことだ。麻雀小説では、その小説的世界を楽しむのが本筋で、『麻雀放浪記』はその小説的世界が非常に魅力溢れるものになっているのだ。
 といっても抜群に面白いのは第一巻の「青春編」だけで、その後は主人公である坊や哲も嘆いているように、戦後の混乱期から抜け出した舞台ではドサ健や哲のハングリーな戦いが空回りして外の景色とマッチしなくなってしまっている。

 ヒットした小説の映画化としては珍しく、真田広之主演の映画も相当面白い出来になっているので、活字が苦手という人にはそちらのほうもお薦めしておきたい。
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by Mazzan_tini | 2005-03-14 16:16 | 書評
 先日、出張で一週間ほど北陸を旅(いや、出張だから旅とは言わないか)してきた。期待していた食べ物はイカの刺身が旨いと思ったほかは余り恵まれなかった(というか、多忙を極めて店探しすら覚束なかった)が、久しぶりに高速を気持ちよく走れたのは良い気分転換になった。
 で、高速を颯爽と飛ばして石川県は美川という町に入ったときのこと。まあ、よくあるじゃない。市町村の境界に「ようこそ○○町へ!」という類のやつが。美川町にもありました。かなり存在感のあるサイズの看板が。

 「美川 県一の町」

 おっと。いきなり駄洒落でお出迎えですか。ふぅ。
 いや、町民はこの看板、どう思ってるのかね。


 閑話休題。

 最近のヒットメーカー、伊坂幸太郎の出世作とも言われる(って知らんけど。帯にそう書いてあった)本作。読んでいる間はそれなりに面白いけど、これだけ読後感の無い小説も珍しいなぁ。
 筋立てがパルプ・フィクション的というか、トラフィック的というか、著者紹介にも書いてあった通り、著者が映画から多大な影響を受けていることはわかるのだが、「それなら映画でやればいいのでは?」なんて意地悪なことも少し思ってしまった。
 例えば恩田陸あたりもそうなのだが、最近の作家(特にミステリー)の小説を読んでいると、「この人は本当は映像にしたいんじゃないか?」と疑ってしまうようなものが多い。今の時代、ちゃんと映像というメディアがあるのだから、映像的イメージしか浮かばないのなら何も活字で発表する必要はない。「文字でなければならない何か」が伝わってこない作品ってのは、どれだけ筋が良くても果たして小説として如何なものであろうか。
 と言っても、恩田某と違って、伊坂の文章に魅力が無いとは思わないのだが、構成のトリックが段々読めてきた後半からは「ああ、なるほど」と思う程度で、文章を追う楽しみが薄れてしまった。いや、なかなか面白い仕掛けがあってよく出来てるとは思うんだけどね。 
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by Mazzan_tini | 2004-10-06 00:07 | 書評
 下北沢にある某書店の店長さんに薦められて購入。

 星新一なんてガキの頃にいくつか読んだきりで、存在そのものをすっかり忘れてしまっていたわけだが、現在の私の趣味からはなかなか自ずとは手が伸びない作品だろう。誰かのお勧めを聞いてみるというのは、本に限らず新たな出会いやふとした再会があって良いものかもしれない。

 読み始めてしばらくは、当たり前のことだが小学生にも理解できる平易すぎる文章がしっくりこず、「ああ、やっぱり星新一なんてもう無理な歳なのか」などと、己の老化を嘆いたものだが、それにも馴れれば、ショート・ショートの天才が珍しく残したこの長編の深さに気付かされる。
 夢の世界を描いた(間違っても夢野まりあの世界ではない)とは言え、ほんわか楽しいばかりの小説ではない。人生の哀しさがしんみりと伝わってくる。「ぼく」が冒険の最後に出会った老人の話なんて好きだなぁ。人生ってなんだろうとね、思いますよ、実際。いや、薦めてくれた店長さん。ありがとうございます。
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by Mazzan_tini | 2004-09-08 00:18 | 書評
 主人公の恋人がある夜、コンビニにリンゴを買いに行ったまま失踪してしまう物語。原田泰造主演で映画化もなされた作品。

 男女の行き違いはよくあることで、それを描いた小説は数多あるものの、一種謎めいた冒頭で読者を物語に引き込んでいく手法は巧い。だが、主人公を始め、我々読者も謎に包まれるとはいっても、この小説はミステリーではない。やはり男女の物語である。ミステリーだと思って読むと多少拍子抜けするかもしれない。

 ただ私は面白いと思いましたよ。ええ。
 主人公の煮え切らなさがなんだかリアル。実際、自分が主人公の立場でも、必死になって彼女を探すかどうか。いや、そうはしないだろう。この冴えない男のように、ああだこうだと考えたり忘れたりしながら、月日を費やしていくに違いない。

 いや、実は私にも非常にシンパシーを抱く経験があるのである。
 もちろん私の彼女は失踪などしなかったし、失踪してもいない彼女の行方を探してみるなんてことをする筈もなかったが、「帰ってくるはずの彼女が帰ってこなかった」経験ならあった。
 当時、彼女は海外に留学中だった。留学するまでに3年以上の月日を共に費やしてきた我々は、その留学でふたりの仲が壊れるなどとは想像もしていなかった。だが、ひょんなことからそれは壊れた。詳述することは避けるが、きっかけはほんの些細なことに過ぎない。ただ、私はその些細なことについてのフォローをしなかった。大したことじゃないと甘く見ていた。しかし、彼女にとって、そのことは私との付き合いを考え直すきっかけになってしまったようだった。

 実際のところ、彼女は「帰って来て」いた。
 日本に帰って来ていたにもかかわらず、2ヶ月近くの間、私と連絡を取ろうとしなかったのだ。ふたりの間にはっきりと「別れよう」というやりとりがあったわけではない。ただ、彼女は、私の元に帰ってこようとはしなかった。いくつもの荷物を、私の部屋に残したまま。
 
 彼女との別れを悔いているわけではない。
 だが、あのとき私が彼女の言葉を真剣に受け止めていたならば。
 いったい我々の仲はどうなっていたのだろうかと思うことがある。戻りたいわけではない。単純にどうなっていただろうと思うだけである。
 そして、この小説の主人公同様、苦しんでいる彼女に手を差し延べなかった己の選択には、おそらく生涯、苦い悔いを抱き続ける。そんな気がしている。
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by Mazzan_tini | 2004-08-30 23:13 | 書評
 今年の本屋大賞受賞ということで、珍しく新刊を購入して読む。

 記憶がきっちり80分しか持たないという症状が実際あるかどうかは知らないが、映画『メメント』を観た人間としては、やや設定に二番煎じを感じてしまう。まあ、記憶障害というテーマは近頃ニュースやドキュメンタリーでもよく目にする話題だから、殊更に『メメント』からアイデアを拝借したというわけではないだろうけど。
 そうは言っても素材そのものは興味深いし、語り口も安定している。全体的に暖かみのある小説で幅広く支持されるのも頷ける。ただ、人物造形といい、話の運びといい、どうにも定型的過ぎる感があり、私はそれほどのめり込めなかった。読者を置き去りにすることを恐れずに、もう少し数学の世界に深く踏み込んでもらったほうが良かったんじゃないかと。
 
 ところで、この小川洋子という著者は阪神ファンなんだろうか。時代背景の1992年という年は、我々阪神ファンにとっては特別な年で、長く続いた低迷期に、突然確変を起こして優勝争いを演じた年である。この小説では阪神の快進撃と絡めて物語が描かれているのだが、正直、「阪神の話を持ち出す必要があるの?」と思ってしまった。江夏の背番号28が完全数であるとかもっともらしく数学と絡めてはいるが、言わせてもらえば、野球のルールもろくに知らんこの博士が江夏に対して熱い思いを抱いていたなんてとても思えない。野球はよく知らんが、選手は好きだなんて女の感覚じゃねえかと。野球ファンを舐めるなと。

 って、別につまらんわけじゃないんだけどね。大賞という肩書の割りにはちょいとばかり物足りないんじゃないのと、そういう話で。
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by Mazzan_tini | 2004-08-12 17:08 | 書評